これまで、幾度となくブログにチャレンジをしてきた。
「アフィリエイトで稼ぐ」
そう決意しては、壁をトンカチで2、3度叩き、「これは無理だ!!」と諦めてきた。
そして言い放つ。
「2度とブログなんてやるものか」
そう固い決意をして、今に至る。
なぜ、性懲りも無く戻ってきてしまうのか。
なぜ、1円にもならず、誰にも読まれないのにブログを書いているのか。
それをまた、脳内整理をしながら書いていこう。
好きだから
いつから「お金」がメインになったのか
そもそも、「ブログ=稼ぎツール」のような縮図になったのはいつからなのだろう。
「稼がなくては、やる意味がない」
そんな社会的な圧力に屈し、いつもブログを手放してきた。
でもまた、こうしてブログを書き始めてしまう。
冒頭で、「壁を2、3度叩いて」と表現したが、それの延長とするなら、今はその壁にお絵描きをしている状態なのかもしれない。
この壁を壊せば、稼ぐことができるのかもしれない。
でも、自分にはその才というか、熱意はないようだし、いっそお絵描きでもしている方が、ただただ楽しい。
この真っ白な画面に、タイピングで文字を打ち込み、画面が黒くなっていく。
「まるでアートだわ!!」
痛々しいこんな発言も、「お金」を先頭に置いたら書くことはできない。
どこかの、どなたかの「役に立たなければ」ブログの意味はない。
だとしても、これを書いている。
誰のために?
自分のために。
だって、私。
ブログが好きなようなので。
遺書的な
見せたいのは多数ではなく、家族
結婚し、3人の子供を授かった。
生活の苦労は絶えないが、なんとか長男が15歳になるまで、生き抜いている。
当たり前のようで、当たり前でない。
家族ができて以来、思うことは多々あるが、一番思うのは
「死にたくない」
ということ。
死ぬこと自体は怖くない。
ただ、自分が死ぬことで、家族が悲しんだら嫌だなと思う。
それは逆でもそうだが、残念ながら、この世界は命があるかぎり、誰にでも一定の確率で「死」があるらしい。
震災にしても、事故・事件にしても。
たとえ、その人が純白な善人だとしても、悪人と同様の確率があるようだ。
そんな「一定確率の死」と向き合うためにできることはなんだろう。
と思った時に、「文字に残すこと」が浮かんだ。
ブログが好きだったこともあり、こうして言葉を残せば、自分に何かが起こり、身体こそなくなっても、ここに魂は残せるのではないかと。
話が逸れてしまったが、稼げなくても、誰に見られなくても、「ブログを続ける意味」ってのは見つけられた。
運よく、この先も生き続けることができたのなら、子供が大きくなったときに、このブログを読んだらどう思うだろうか。
「あー親父はアホだったんだな」と、今よりはっきり認識するのかもしれない。
もしくは、自分が歳を重ねて、ふと振り返りたい時に、インターネットやドメインがなくならない限りは、ここで人生の軌跡を見ることができるのかな。
なんて。
そんなことを思ったりする。
ただただ吐き出す
金持ちや成功者はノートに書く。らしい
ブログの一番の魅力は、自分の思考のゴミを外に出せることだ。
それは、ノートでも同じなのだが。
ある日、とある組織のグループラインの中で、「成功者はノートに手書きでアウトプットしているから、必ず手書きで書きましょう!!」
と、流れてきた。
「なるほど、成功者は手書きで書くのか」
ちょうどその頃、「本当にやりたかったことをやりなさい」という著書の中で、モーニングノートなるものが紹介されていて、それをやっていた。
だから、「自分は成功者になれちゃうのか」と思っていたのだが、残念ながら今のところ特に変わりない。
それどこか、「成功者」の匂いが一切しないのだが?
成功者の匂いはしないが、加齢臭はいつだって準備万端で待ち構えている。
しかし、思っていたことがある。
そもそも、ブログが書きたいのに、わざわざノートに書くのがずっと面倒だった。
とはいえ、「成功者はノートに手書きで書く」という言葉を信じて続けていたから、ノートに想いを書き続けた。
しかし、いよいよ牢屋に閉じ込めていたあいつが、「ブログを書かせろ!!」脱獄をした結果、今に至る。
彼は冤罪だった。
むしろ、捕まるのは自分の方。
どこの誰かも分からない架空の「成功者」の甘い声に耳を傾け、自分の心の声を無視する。
その時点で、すでに「成功者」ではない。
そもそも「成功者」って何?
無事に生まれ。、育って、結婚して子供を授かり、家を建て、3食食って、ノンアルビール飲んで、温かいベッドで寝る。
これでまだ「成功者」じゃないの?
どんだけだよ。
まとめ
「あなたの趣味や特技はお金になります!!」
そんな言葉が世の中を駆け巡っている。
少しSNSをひらけば、怒涛の如く「成功者」が現れ、有る事無い事を大声で言い放っている。
そもそも「成功者」って、こんなに一杯いるのか?というくらい溢れているようで、むしろそれは、ただただ格差を露呈しているだけのようにも思える。
「あなたも努力れば成功者!」
「副業で30万で人生を変える!!」
踊ってんだか、踊らされてんだか。
結論はよく分からないけど、自分にとっては「好きだからやる」ってくらいがちょうどいいらしい。
繰り返しになるが、そもそも、暖かい家があり、毎日風呂に入り、3食食べて、食べ過ぎて「ダイエット」なんて言葉があるくらい幸せ狂いしているのに、まだ欲するの?
テレビ、スマホ、ゲーム、動画コンテンツ、パソコン。
ありとあらゆるものが揃っているというのに?
一体、どこまでいったら「満足」するのだろう。
もし今、スマホを眺めて「金がない」って言っているのなら、多分それは違う。
お金が本当になかったら、きっとこの文字を読むことも、動画を見て誰かに嫉妬することもない。
誰かにチヤホヤされないと「成功者」ではないのだろうか。
誰かより多くのもの、多くの何かを持たないと「成功者」ではないのだろうか。
だとするなら、私はここでドロンさせていただきます。
忍法。
「幸せ隠れの術」
からの、螺旋丸と空圧拳をお見舞いしたい。
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