とは言っても。
世の中には「ルール」がある。
人を殺めてはいけないし、ものを盗んでもいけない。
しかし、それはあくまでも、悪魔でも?「ルール」であって、守らないこともできるのだが、残念ながら、そんなドメスティックな話はしない。
逮捕されないように、世の中のルールは守ることにする。
けど、信号無視くらいはする。
「好き勝手生きていい」ってのは、もしかしたら、信号を守らない程度のものなのかもしれない。
と、今言葉にして思ったところだ。
良い歳だけど、夢を追いかけたいとか、金髪にしたいとか、タトゥーを入れたいとか。
世の中のルール上、それは「してもいい」にも関わらず、何かがそうさえてくれない。
その「何か」はなんだろう。
社会人だから?親の期待?家族がいるから?会社をクビになる?この先の人生に関わりそう?
でも、今この状況で、それが出来ない。やらないのであれば、それをする必要はないのかもしれない。
だってきっとそれは「悩んで」いるのだと思うし、その「余裕」があるのだと思うから。
自分は最近、仕事を辞めた。
わずか3ヶ月。
研修2ヶ月、実践3週間くらいで、残りは有給。
実質、3ヶ月も勤務していない。
さて、我ながら恥ずかしい話だが。
葛藤した上、実際に退職をして、晴れてブログを書いている。
きっと、勤務していたら、ブログを書く余裕も気力も、残っていたなかったと思う。
根性がない、我慢が出来ない、人からどう言われても、何を言われようと、それは構わないのだが、どんだけ我慢しても、うんちが漏れてしまうように、「自然と」その方向に行ってしまう。
自分に言い聞かせた。
「せっかく研修して、お世話になったのに辞めるのか?」
「ここにいれば、ひとまず安定した生活ができるかもしれない」
「有給とかボーナスとか、年末年始も休めるぞ」
散々言い聞かせたが、結局、最後はトイレに駆け込んでことなきを得た。
極めて脱糞に近い状況だが、ちゃんとトイレで済ませたと思っている。
いつの間には、自分を押し殺せなくなってしまった。
一度開箱から出したものを、元に戻せなかった。
一生懸命に水をせき止めても、水は同じ方向に構わず進むように、上に投げたボールが下に落ちてくるように。
「自然と」今、ここにいる。
どうやら、この世界は窮屈に感じるものの、実はそれなりに好き勝手生きていい。「らしい」
「らしい」というのは、まだ自分がそれを体現したわけではないからだ。
だけど、それなりに好き勝手生きても、今ここに存在できている。
消されるわけでもないし、誰かから攻撃を受けるわけでもない。
ただ、ひたすら、パソコンに向って、文字を起こしていく。
でも、好き勝手生きる分、その代償も自分で払う必要があるのだろう。
しかし、こっちはこれくらい、あっちはあれくらい。
なんて、微調整を繰り返して、一塁二塁間を彷徨っていたら、それはもはやOUTだろ。とも思う。
少なくとも、OUTにこそならなくても、人から見て魅力的には映らないだろうし、何より、その中途半端な自分を、自分が認めてあげることができるだろうか?
そんな疑問もある。
一塁から二塁に行くという事は、「一塁には戻らない」ということだ。
ただ、二塁から一塁に戻るシーンも、ちょっと見てみたい。
その場合、キャッチャーは体が反応して、ボール投げてしまうのだろうか?
くだらない妄想が止まらない、今日この頃。
自分は好き勝手生きているのだろうか。
いや、そんな事はな
何より「お金」の制限があるのだから、「好き勝手」なんて事はできやしない。
それでも、ある程度、自分の好きなように生きれている。とは思う。
その代わり、失っているものも多いだろうけど。
ここまで書いて、最後に出てきた言葉が、「だからなんなの?」だった。
だからなんなのだろう。
ほんと、それに尽きる。
好き勝手生きようが、生きなかろうが、だからなんなのだろう。
そうやって、二極化して、重ね重ねカードを出して、どっちがいいか。どっちが正しいか。
それこそ、本当にくだらないのだと思う。
だから、自分はくだらないのだろう。
でも、思うのは、それなりに好き勝手生きるなら、当然他人の「好き勝手」に寛容であるべきだし。
正しいか否かなんて、そんなことを定義することなど、許されはしない。
自分を許容するなら、他人も許容する。
むしろ、自分のことなんて無視してもらっていいから、世界のことも無視させていただきたい。
そんな具合だ。
道の端っこの暗いところで、静かにお菓子食べてるから、どうかそっとしておいてください。
悪口は聞こえないようにお願いします。
その代わり、私も何もいませんので。
はぁ。何を言いたいのか分からない。
書いていて疲れるし、消したい。
だけど、きっと、こんなことも、いずれ思い出になって、気持ちの悪い歴史の一つとして、このブログに刻まれると思うと、せっかく書いた、このクソ文章すら、消したくはない。
一昔前なら、絶対に消していた。
だって、無意味で、無価値だから。
でも、それはあくまでも「他人から見た」視点であって、自分くらいは、自分の存在を認めてあげてもいいような。
そんな気もするし、それができるのがブログの良いところなのだと思う。
自然の流れに任せるのも悪くない。
眠いから寝る。書きたいから書く。
嫌だからやめる。楽しいからやる。
それが出来なくなってしまうのは何故だろうか。
一体いつから、そんな風な生き方になってしまったのだろう。
でも、ほんの少し、取り戻せているのは何故だろう。
この流れに、無理に逆らう必要はない。
確かに、対岸は魅力的で羨ましく見えるかもしれないが、結局それも一時的なものに過ぎない。
その岸に行こうと、必死に苦しみながら、ようやく辿り着いたとして、その頃には、そこには誰もいないかも。
もしくは、誰も受け入れてはくれないかもしれない。
きっと、行き着くところに、人は行き着くのかもしれない。
人生を自分で選択しているつもりでも、大きな川の流れの中の一部にしか過ぎないのかもしれない。
いずれにせよ、この流れは止まらない。
川の長さに長短があるかもしれないが、それは誰にも分からない。
焦らず、気張らず。考えすぎず。
今あるこの流れに、乗って見てはいかがだろう。
好き勝手生きるって、そういうことなんかな。
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