神奈川から秋田に移住して早1年。
訛りや方言は、いまだに聞き取れない。
運転スピードが速く、すぐに煽られる。(50キロ道路を80は出すのが基本)
そして、5人で住むには狭すぎるボロ賃貸アパート。(床はキンキンに冷えていて、隙間風が容赦なく入ってくる)
そんな、目に見えない田舎基準への適応から始まった生活。
日々、関東との違いを感じ、当初は嫌悪感すら覚えたいたが、時間の経過と共に芽生えた感情がある。
「あれ、なんか幸せかも」
特別なことはしていない。
収入は移住前の半分以下だし、妻が働いてくれないと、家族を食べさせてはいけない。
そんな情けない日々なのに、なぜか湧いてくる「幸せ」
それがなんなのか。
自分の整理も踏まえながら、ブログにしたいと。そんなことを思っている。
健康という、当たり前で最強の武器
ストレスが少ない
関東で生活をする中で一番悩まされたのは「健康」
とりわけ、パニック障害や動悸といった、精神的な部分に関わる問題だ。
極端な過呼吸を起こすわけではなかったけど、睡眠は浅く、健康診断で異常はないのに、なぜかいつも血圧が高い。
そして、どこかに出かけるたび、パニックになるのではないか。
という恐怖心と戦う日々だった。
しかし、移住後、その現象は全くと言っていいほど出ていない。
圧倒的に出会う人が少ないし、自分がフリーランスということもあり、上司や部下に悩まされることはない。
この人間関係については、いわゆる「あるある」だが、別の記事で触れる。
怒りと共に…
早寝早起き
先日、めでたい事に家が建った。
移住して1年以内に家が建つとは自分たちも想像していなかったが、あまりにも寒く不便なアパートが、妻を強く動かした結果、今に至る。
それと現在、家にテレビがない。
今後もテレビを設置する予定はないのだが、無くしてみると、テレビが自分たちから奪っていたものがある。
それは「時間」
見知らぬ間に奪われていた時間が戻ってきたことで、1日が長くなった感覚があり、必然と、やるべきことをやるようになってきている。
そして、早く起きて、山々と田んぼが広がる景色の中を、これ以上ないブサイクな顔で散歩をする。
そんな犯罪レベルの顔で歩いても、散歩中に人に会うことはない。
この酷い顔を拝めるのは、その辺で遊んでいるカラスか、田んぼにいるサギかキジくらいだ。
健康が生み出す、心の安定
「健康」が、人間の営みの根本であることは、誰もが理解している。
にも関わらず、仕事に忙殺され、帰宅してもテレビに時間を奪われ、自分も気づかない間に蝕まれていく。
よく眠れない。動悸がする。めまいがする。体が重い。
「社会人なら当たり前」
そんな言葉すら聞こえてきそうだが、それは本当にそうだろうか。
僕らは「仕事をするため」に生まれたのでない。
「会社のため」に生きているわけでもない。
でも、仕事は人にとって「必要なもの」だと思う。
だけど、そのために不健康になり、思考を奪われ、ロボットのように生きていては、本当の意味での「幸せ」を感じることは難しい気がする。
もし悩んでいるのであれば、一度ペースを落とすなり、立ち止まって、振り返ってみればいい。
これから進むであろう道は、自分の心と同じ方向を向いているだろうか。
川の流れのように、自然に流れているだろうか。
「自由」を感じる
フリーランス
「フリーランス」というと聞こえがいいが、自分の場合は軽配送業。
したがって、プログラミングや英語といった、スペシャルな能力を持ち合わせていない。
当然ながら、収入もしっかりと平均以下だ。
仕事内容は、ただただ荷物を運ぶだけの肉体労働ではあるのだが、それだとしても、雇われているかどうかは、「自由度」に大きく関わってくる。
当然、良い面もあれば悪い面もあるが、「自由度」を基準にするのであれば、この働き方は自分に適している。
仕事がないこともあるが、基本は自分で仕事を「する・しない」を選択できるし、休みたい時に休める。
当然、その日の報酬は減ってしまうわけだが、体調や気分、はたまた天気によって、仕事をするしないを自分で選択できるのは、この上ない。
当然、休むために上司や同僚の許可などいらないし、「誰かに迷惑がかかるかも…」なんて心配もない。
せいぜい、「稼げなかった分は浪費しないようにしよう」と思うくらいだろうか。
田舎での生活
田舎と言っても、人口は7万人前後いる。
しかし、高いビルやマンションはないどころか、山々に囲まれ、田園風景が広がっている。
家の周辺をランニングや散歩をしても、ほとんど人に出くわさないし、車も少ない。
渋滞しているところを見た事がないのだが、その反面、無駄にスピードを出している車が多く、その部分に関しては、首都圏よりよっぽど怖い。(1車線なのに普通に追い越してくる)
また、「知り合いがいない」という環境も、意外と自由度が高い。
人目を気にする必要はないし、別に悪く言われようが構わない。
移住前は地元で仕事をしていたため、街を歩くと顔見知りによく出会したが、退職後は外に出るのが嫌になり、引きこもった。
職場でも「しっかりしていないと」とか、「〇〇さん家の旦那さん。お父さん」と言った見られ方も意識していたが、今は何もない。
移住者の立ち位置としては、元々がこの県の生まれならウェルカムだが、特に縁のない自分のような移住者は、どちらかというと「よそ者」に近い。
最初は、輪の中に入らなくてはと思ったが、今は全くそう思わない。
むしろ、その「よそ者感」が、かえって自分のペースを作ってくれているようにすら感じている。
家族との時間
諸行無常
仏教的な考え方が好きで、仏教の本をいくつか読んだ。
「諸行無常」なんてのは、誰もが聞いた事がある言葉で、わざわざ自分が説明する必要もないのだが、つくづく、「諸行無常だな」と感じている。
特に、子供との時間に関しては、この言葉が、この上なく適している。
長男は15歳になる。
赤ちゃんだった長男が、自分の身長を超え、低い声で「パパ」と言ってくる。
この恐怖と絶望感は、家族を持ち、男の子が生まれれば、いずれ感じることになる。
それとは逆に、もし彼が別の県の大学や就職に行くとなったら、彼との生活も残り4年しかない。
人生100年時代なんて言われるが、子供との時間は、その4分の1ほどしかないと思うと、「今、この瞬間」
家族が5人揃って生活できる時間が、どれほど貴重で「幸せ」か。
残りの時間を、ただただ大切にしながら、田舎生活を楽しむ。
フリーランス
先ほども登場したのだが、収入が低くてもフリーランスをする理由はここにある。
「家族との時間が欲しい」と思った時に、自由に休むことができる。
仕事も時給ではないため、早く終われば、そのまま帰っていい。
早い時は昼過ぎには家にいることもあるくらいで、その時はサッカーをしている子供たちと、誰もいない公園でボールを蹴る。
それを「幸せ」以外のなんと呼ぶのだろう。
移住前は、妻も不甲斐ない自分のために、身を粉にして働いてくれた。
夜遅くに帰ってきて、子供たちとの時間も取れず、週末も習い事の送迎だなんだと忙しかった。
しかし、今はすぐ横に妻の両親が住んでいて、妻の友達も多くいる。
何かあれば、妻の両親が助けてくれるのだが、結局のところ、これが妻にとって最強の支えだった。
貧相な食事。
だけど、5人揃って食事をする。
しつこいくらい言うが、「幸せ」だ。
だって、これは「幸せ」を伝えるために書いているから。
まとめ
不安がなくなることはない。
収入は多い方がいいに決まっているし、子供の進学や、自分たちの老後など。
人並みの不安は常に抱えるものだと思う。
しかし、来るかわからない未来のために、今を無駄にするは必要ない。
遠くばかりを見て、「今、この瞬間」を大切にしないのは、なんか違う気がする。
将来が重要じゃないとは言っていないが、大切なのは「今」
今日一日、家族に思いを馳せただろうか。
声変わりして思春期に入り、全く可愛くない長男とする、ぎこちない会話。
新築の家を壊さんばかりに走り回り、毎日怒鳴れる次男と長女。
自分の横でフェイスパックをしながら、スケキヨ状態でパソコンと向き合う妻。(恐怖映像)
この「当たり前」の風景は「当たり前」ではない。
この瞬間は「今」しかない。
きっと、明日も隣にはスケキヨがいてくれるが、それもまた、今この瞬間とは違う別のものだと思う。
改めて「幸せとは何か」と問われても、わからない。
だけど、「今、幸せだ」と、心から思える日々を送れている。
それは「ずっと続かない」と分かっているから、そう思えるのかもしれない。
それか、人並みの苦労をした結果、少し落ち着くことができて、そう思えているのかも。
いずれにせよ。
今日もまた、この「幸せ」な1日が終わる。
特別なことがあった訳ではない。
ただただ、「平凡な毎日」が心地よい。
テレビもYouTubeもSNSも見ない。
そこに真実はないと感じるから。
ただただ、目の前にある世界に感謝して。
今あるものに感謝する。
そんな日々を流れに任せて過ごすだけ。
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