なんとなく、あっちの方に何かある気がする。
なんとなく、この道は行けるような気がする。
だから、とりあえず歩んでみる。
そうやって歩み出してみると、なんとなく、「そこに辿り着きたい」と思えてくる。
なんとしても、その景色を見ることはできないかと。
年を重ねてしまった。
自分で蒔いた種が自分の足を引っ張り、行手を阻む。
行きたいけど行けない。
行こうとするが阻まれる。
「そんな欲を出す必要はない」
そうやって自分に言い聞かせ、あぐらをかき、自分を誤魔化してきた結果が今なのだとしたら、その判断は間違っていたと言わざるを得ない。
「今度こそ大丈夫」
そんなことを言って出航しては、「やっぱ無理だった」と早々に引き返す。
まだ陸が見えるほどしか進んでいないにも関わらず、何かを学んだような顔で戻ってきては、薄く浅い知識を撒き散らす。
まるで世界を見てきたかのような口ぶりで懸命に自慢をして、周囲も笑って聞いているが、結局は同じ穴の狢。
互いに傷を舐め合っているようで、そいつの浅はかな失敗をただただ嘲笑っているだけだ。
性懲りも無く、また出航してしまった。
そして、さっそく座礁して頭をよぎる「帰りたい」
けど、心から思っているわけではないらしい。
なぜなら、進むことより「帰ること」の方がはるかに簡単で、そしてそれが、どれだけ愚かかを知っている気がするから。
なんとなく目指す場所がある。
なんとなく歩みたい道がある。
それは「絶対」の人もいれば、「なんとなく」の人もいると思うが、「なんとなく」でも、それは十分理由になりうる。
「なんとなく」でも進みたいと思えるなら、それは正解になる可能性が高い。
絶対行きたくない道には、絶対に進まないのだから。
重要なことは「戻らない」と決めることだと思う。
もちろん、船の点検もままならないまま、いきなり全力でぶつかる必要はないと思うけども、「行く」と決めたのであれば、退路を断つべきだ。
そうでないと、これを書いている奴のようになってしまう。
近そうで遠いであろう、その景色を見るには、進み続けるしかない。
進み続けたからといって、必ずその景色を拝めるわけでもない。
けど、進まずしては、何も得られない。
「失敗しても、その経験は生きる」
なんて、そんな甘やかした言葉を言うつもりもない。
「失敗は失敗」「負けは負け」
その現実を受け入れる勇気がないから、いつまでたったも陸の見える場所で、漂流し続けているのだろう。
歩み続けるだけ。
一日一歩なんて大きすぎる。
自分のペースで、無理をしながら無理しすぎず。
少しずつ目的地に向かって進み続けるだけだ。
「なんでそんなノロノロ走っているの?」
そう言われることもあるだろう。
自分の横をジェットスキーであっという間に抜き去っていくのかもしれない。
それでも、よそ見を極力せず、淡々と進み続ける。
振り返っては行けない。
陸が見えなくなり、帰れなくなるまでは。
「普通は」
「常識的には」
「大人として」
「年齢的に」
そんな言葉の数々に耳を塞ぎ、笑われ、指を指される勇気を持てなければ、きっとそこには辿り着けない。
何もない結果に終わる可能性は十分にある。
何もないならまだしも、傷つき悲しんだ上に、負債まで抱えているかもしれない。
その「負け」という現実を、素直に受け入れる勇気も、同じくらい必要なのかもしれない。
しかし、どう考えても、人生は一度きりしかない。
輪廻という概念があったとしても、「この人生」は、これっきりだ。
次に人間で生まれてくる保証はない。
だとするなら、運良くもらったこの「人」生を、それなりに生きたいと思う。
型にはめ込まれ、ベルトコンベアーに乗せられ、同じ場所で何十年もクルクル回り続ける人生を送りたくはない。
そんな人生を否定するつもりはないけども。
自分がそう思ってしまうのなら、仕方ないと。
今はそう思える。
目的地を定める。
ただの幻想かもしれないが、そこに向かってみる。
漕ぎ出してみる。
「自分」の基準で考え、迷い、苦しみながら、選択し続ける。
歩みを止めないように。
どんな結果が待ち受けているかは分からないが。
最後はどんな形になろうとも、自分のケツは自分で拭きたい。
だとするなら、最優先でするべきことは、上質なトイレットペーパーをいち早く手にいれる事だ。
そんな明日を迎えたいと願う。
コメント