はて。
このパソコンの電池は一体後何分持つのだろうか。
そんな言葉を頭によぎらせつつ、このパソコンの我慢強さを信じて、久しぶりにブログを書いている。
こんな感じで、自分の心の声を書くことを、世の中では「エッセイ」というらしい。
先日までは、このような記事に「コラム」なんて、大層な言葉をつけていた自分が痛すぎてたまらない。
だからと言って、素人のおっさんの心の声に「エッセイ」と付けるには、いささか問題がある。
したがって、約一年前に考えた「思考の肥溜め」という名称にて、再スタートする事にした。
そして、一体誰に向けて、それを訴えているのか。
おそらく、これを書くことは、「書く」という以上の意味を持たない。
題名の通り、ただ頭の中に浮かんだ排泄物を吐き出していく。
それはまさに「排便」だ
よく噛み砕き消化され、立派な排泄物が出ることもあるかもしれないし、時には消化できずに軟便になることもあるだろう。
そんな汚い話を、真顔で書いているアラフォーはきっとこの世にそういないと信じたい。
世のアラフォーは、もっと生産的な、知的なことをしているに違いない。
真相は分からないが。
この記事の題名は「1周回って」だった。
すっかり忘れていた。
「書いては消す」という行為を、これまで数え切れないほどしてきた。
先述しているが、「思考の肥溜め」という言葉が頭をよぎったのも、かれこれ1年以上前で、その時も同じようなことをしていたが、もうその記事は全て消されて、今に至る。
時に人生を螺旋階段のように表現することがあるが、この見慣れた景色は、果たして階段を登ったところにあるのだろうか。
それとも、ただ同じ階層をグルグルと周り、「なんか景色が違うぞ」なんて自分に言い聞かせているだけかもしれない。
いずれにせよ「1周」まわったような。
そんな気がしている。
しかし、だからどうってこともない。
レベルが上がったわけでも、何かしら思考に変化があったわけでもない。
ただ「戻ってきた」というだけで。
この言葉の数々には、何の意味も価値もない。
「ブログで儲ける」
そんな淡い期待を抱いていたこともあったが、少なくともこの記事で稼ごうなんて微塵も思っていない。
思えるわけがない。
しかし、だからこそ続けることに意味があるようにも感じている。
だって、何のご褒美もないのに、こうしてパソコンに向き合い、大して早くも正確でもないタイピングを、夜な夜なカタカタとやっているのだから。
きっとこれを「好き」というのだろう。
求めることもなく。
完璧である必要もない。
誰かに見られることを意識する必要もない。
ただただ「やりたいからやる」「好きだからやる」
そして、他人様から見たら至極つまらないこの記事に対し、自己否定することなく、自分の人生の思い出として、ゆるく、適当に続けていく。
それが自分なのだろう。と、確信のない確信を抱いたところで、この記事を締めくくることにする。
終わりまで電池が持ったぞ。
なんて素晴らしいんだ、MacBookair。
君の能力の5%も引き出せていないが、許してくれ。
感謝はしている。
今後とも末長く頼みますよ。
君がいないと、コーラックを使う羽目になってしまうから。
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