もう一年。
いや、やっと一年?
いずれにせよ、1年が経過した。
思うことは色々とあるけども、今日も自分の整理と共に、ブログを書いていく。
幸せを感じる
時間に忙殺されていた
移住して1年が経ち感じることは、時の流れが緩やかになった気がする。
24時間、365日は変わらないのに、時の流れが関東と比べると遅い気がする。
もちろん、自分がフリーランスになって、収入が減ったものの、時間が増えたのは確かで、その証拠に、朝からゴミ捨てついでに散歩をして、朝シャワーをして、現在9時前。
コーヒーとナッツと共にブログを書いている。
けど仕事云々より、「環境の違い」という方が正しい。
それが何かというと、
圧倒的な人口の差。
神奈川には狭い土地に900万人が住みつき、隣の家との距離が1メートル以内なんてざらな話。
外に出れば人が溢れ、電車に乗れば、戦うおじさんたちの二酸化炭素が充満していている。
時期によってはメガネが曇り、でも満員だからメガネが拭けず、曇ったまま「フーフー」している人を幾人か見たことがあるが、振り返ると恐怖だ。
街ゆく人たちも時間に追われ、スピードがはやい。
高いビルやマンションがそびえ立ち、圧迫感がある。
すれ違いざまに、睨まれたとか、肩がぶつかったとか。
今なんて、どんなに睨んでも、目が合うのはカラスかサギだってのに。
そして、ここはというと。
人は少ないし、空が広く青い。
人口が少ない分、仕事量も比例して少なくなる。
どんなに目つき悪く歩いても、目が合うのはカラスかサギくらいで、肩をぶつけようにも相手がいない。
仕事に追われ、知らぬまに競争に巻き込まれ、自分を見失ってしまう。
けど、今は空を見上げて、吸いたくて空気を吸う。
仕事をして、家族揃って食事をする。
移住前とやっていることは変わらないのに、「幸福度」には雲泥の差がある。
移住したことが「正解」かどうかは、はっきりは分からない。
でも、ただただ今この瞬間「幸せだ」と感じられているのであれば、それは「正解」なのだと思う。
空気・水が綺麗
あれ、水道水が…
田舎に行けば当たり前なのかもしれないが、関東を離れてみると、この「当たり前」の重要性を認識することになる。
移住して一番最初に気づいたのは「水道水の味」で、カルキ臭が全くしない。
もちろん塩素は入っているのだろうが、独特のカルキ臭がしないことに驚いた。
だから、田舎の水が綺麗かどうかは、専門的な人が見ないと分からないと思うけど、「五感的に」そう感じる。
雰囲気に飲まれているわけではない。
実際、周囲を見渡せば山に囲まれ、雪が降り、その雪解け水が流れてくる。
近くにダムがあるわけでもない。
聞くところによると、今住んでいる地域は、地下水から水を引いているらしく、上水の水道代が安い。(年間2万前後)
あれ、花粉が…
それに加え、この空気。
積極的に吸いたくなる空気がここにはある。
都会の排気ガスやビルやコンビニから出る、汚れまみれの空気ではない。
「自然」の匂いがする。
冒頭に言った通り、田舎に行けばそれが当たり前なのだが、その「当たり前」が「普通になる」ことが、とてつもなく重要なことだと思う。
そして、最大の特典は、「花粉症が発症しない」こと。
小学校4年生から苦しみ続けた花粉症が、移住してから出ていない。
去年は4月に移住したから分からなかったが1年が経過して、全くと言っていいほど症状が出ていない。
しかも、家族全員。みんなひどく苦しんでいたのに。
先々週くらいに花粉を感じて、薬を3粒ほど飲んだものの、関東にいた時のように目が腫れ、熱っぽくなり、仕事に集中できなくて、顔を洗う。
みたいなことは、まずない。
ただ、3月まで雪が降りやがるので…
花粉が飛ばない。飛びにくいのもあるが、理由が何であっても、花粉症に苦しまないのは最高だ。
「たった1、2ヶ月でしょ?」
その1、2ヶ月の苦しみが解消されるだけでも、幸福度は上がってしまうらしい。
自分を見つけられる
孤独という幸せ
自分の場合、妻の両親と、妻の友達数人以外の知り合いがいない。
言うても、妻の両親と仲良く話すわけでもないし、妻の友達と仲が良いわけでもない。
妻と家族以外と話す機会はほとんどない。
故に「孤独」を感じることもある。
配達の仕事も基本的には1人だし、運転している間も、きっと何かを考えている。
一般的には、それを「内省」と呼ぶらしいが、2年前に退職をしてから、自分の声をひたすら聞き続けている。
移住前も、それをやっていたように思うし、関連の啓発本もそこそこ読んだ気がするが、移住してからの方がずっと出来ている気がする。
結局、忙しく圧力の強い中で、空き時間に内省しても、一時的なストレスは軽減できたとしても、「根本的な原因」の解決に至っていない。
転んで絆創膏の質や、絆創膏の貼り方を考えるより、「転ばない方法」を考えないといけないのに、いつもキズパワーパットにしようか、ダイソーでいいかとか。
そういう話になっている。
時間や競争から解き放たれ、蜘蛛の巣のように煩わしい人間関係を切り離し、田んぼの「田」の字の真ん中に、ポツンと立ってみる。
すると「天上天下唯我独尊」って気分になる。
大袈裟に言った。
自分より賢い人。収入が多い人。顔が良い人。センスの良い人。努力ができる人。
そんな人は、この世界に腐るほどいる。
そんな事はわかっているのに、自分たちは常に「誰か」に憧れ、「誰か」の真似をする。
そして、苦しむ。
「なぜ、あんな風になれないのだろう。できないのだろう」
自分自身も、完璧に拭えてはいない。
むしろ、散歩をしながら、「あーじゃない。こーじゃない」と自分を苦しめている時もある。
けど、ふと見上げた空は広く、青い。
周囲には誰もおらず、だだっ広い土地に、小さいおっさんが存在しているだけ。
誰の真似をするわけでもなく、誰かと競争するわけでもなく、ただただ「自分を生きればいい」
誰にもみられなくても、評価されなくても、1円にもならなくても、ブログを続ける理由がここにある。
多くを望む必要なんてない。
もう、十分に持っている。持て余すほどに。
まとめ
今回は「メリット」についてだったが、当然デメリットもある。
それは次回書くとして、移住してから「幸せだ」と思える回数が増えたのは確かだ。
実際、幸福度も高くなっていると思う。
でも、絶対「完璧」にはならない。
何かを得れば、何かを失う。
メリットとデメリットの比率が高い方が良いだけの話で、100対0になるなんて事は、絶対にない。
移住して感じる「幸せ」
その「幸せ」は足し算ではないことを痛感する。
「当たり前」にあるものを見落とし、遠くの「何か」を追いかける。
繋いだ子供の手。
痛がっていることも気づかず、遠くの「何か」のために走る。
子供に話をかけられても、右から左へ流し、ひたすらスマホと睨めっこ。
その遠くの「何か」を得られた時に、周囲には誰かいるだろうか。
いつの間にか、手を繋いでいたはずの子供もおらず、連絡先すらわからない。
そんな状況にはならないだろうか。
「今。ここに幸せはある」
そう感じさせてくれたのが、「移住」であり「田舎暮らし」だ。
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