なんとなく忙しい日々。
久しぶりに1日の休みを得た気がする。
年末が近くなり、アマゾンフレックスも仕事が取れるようになり、そのおかげで日々仕事なり、空いた時間をせどりなどに費やしているが、それがお金になっているとは言い難い。
それでも、このブログを含め、、ひたすらと「何か」に向けて、歩み続けているような。
そんな毎日。
久しぶりの休日は、家族が出かけていて1人だ。
誰も見てないけど、仮面ライダーが流れていて、そしてこの地域は、この時間にワンピースがやっていない。
なんてこった。
その代わりポケモンが流れ、ワイドナショーを見終わったところだ。
そういえば、松本人志さんの復帰も間も無くだろうか。
ことの真相は定かではないが、松本人志さんを、またテレビで見えるのは、なんか嬉しい。
そもそも、著名人とはいえ、私生活を暴露し、それを人質に金を稼ぐ週刊誌もメディアも、正直クソだとは思う。
そこにニーズがあり、それがビジネスになっているのだから、金稼ぎの方法として否定できる物ではないけども。
サッカー日本代表の伊藤純也選手が、代表活動ができなくなって、結果的に無実だったとして。
その人のキャリアを傷つけておいて、性懲りも無くそれを続けるなんて。
常軌を逸している。
そんな、綺麗な言葉に変換したが、心の奥は違う。
頭おかしいから。
それだけ。
そうそう、なんの話をしたかったんだっけな。
怒りで忘れてしまった。
久しぶりにゆっくりとテレビを見た。
華やかな世界。
美男美女、面白い芸人さん、格好良いアスリート(天皇杯の話がしたい!ヴィッセルおめでと!)、歌手やらモデルさんやら。
この世界は「タレント」」にあふれている。
その一方で、私のような「モブ」がいるとして。
「モブ」がいるからこそ、「タレント」がいることを、よく理解していただきたいものだ。
でも、その「モブ」も、モブなりの人生を送ることはできる。
テレビやSNSのような、華やかな世界で生きる必要はない。
楽でおいしい話に右往左往して、自分を見失い、他人を妬み、今日もまた、貴重な時間を浪費していく。
そんな人生を送りたくないと、40近くになって気づくなんて、遅すぎるのかもしれないが、それでも僕は。
いや。モブは。
時間の波に乗って、物事を前に進まないといけない。
可能な限り。
最近、朝起きて最初に思うことがある。
毎朝。
「なぜ人は生きるのだろうか」
誰しもが一度は考えたことがあることだと思うが、40歳を目の前に、その問題が気になった。
だって、同じように40年を生きたら、80歳なわけで。
今と80歳では、できることが違いすぎるだろう。
若い80歳もいるとは言っても、飛んだり跳ねたりを、今のようにできるわけではない。
だとするなら、今できることを、「今」やるべきなのではないかと。
そんな「恐怖」とも言える感覚の中、目を覚ましている。
極論、人は「死ぬために生きている」と言っていいはず。
なぜなら「死ぬまで」は、何かをすることができる。
こんなつまらないブログも、楽しいゲームも、アニメを見ることも。
家族と過ごし、ストレッチをして、お菓子を食べてプラマイゼロ。
むしろ太る。
そんな、くだらなくも尊い日常が、「死ぬまで」は確約されている。
そして、その「死」は、残念ながら選ぶことはできない。
自らの意思で、それを行うことも出来るかと思うが、その勇気とエネルギーがあれば、きっと自分の世界は変えられると。
そう思いたい。
先日の「退職」した時のことを、また思い出す。
人は押しつぶされ、圧迫され、反発した状況で、それから解放されたとき。
自然と口角は上がる。
その状態がずっと続くわけではない。
解放された後、それが日常になると、それが「普通」になるから。
それでも、その反動で、自分の意思や進むべき道。
自分の場合は、「進まざるを得ない」と言った方が正しい。
組織に合わせられず、ノルマなんてあろうもんなら、ストレスで狂ってしまう。
だから、この道を進むしかないのだろう。
「自己責任」ばかりで、会社の保証もなければ、クレジット発行すらまともにできない。
だけど、「自由」が多く、成功も失敗の自分に跳ね返ってくる。
個人事業主が良い、会社員が良い。論点はズレていて、もう話はついている。
「生き方」の問題。
ただそれだけ。
色々、あちこち試してみて、行動に移すことで、自分のできること、できないことがわかる。
そもそも、社会自体は自分を中心になど回っていない。
クレジットカードが作れなかったり、借入の審査が通らなかったり。
行動を起こしたとしても、自分が思うようにはならない。
じゃあそこで諦めるのか?
というとそんな事もない。
ただ、道が狭まっただけがが、選択肢が少なくなった分、迷わずに済む。
「その範囲で生きなさい」
という、ただそれだけの話。
自分の身長が190くらいあって、細身なら、「モデルにチャレンジしようかな」なんて思えるかもしれないが、170センチにも満たない自分が、それを目指すことはない。
そもそも、テーブルに乗らないのだから。
自分たちは最初から、ある程度を、テーブルに乗った品物の中から選ぶことができる。
そしてそれは、先進国で生まれた恩恵の元、おそらく他国よりも多くの商品が並んでいる。
だからこそ、決めるのに時間がかかり、あれもこれもと目移りをして、最終的には何も選ぶことも出来ないまま、杖をつくことになるのかもしれない。
パソコンから目を逸らし、顔を上げてみる。
時間は12時3分。
「なぜ、この国は。自分らしく生きることが出来ないのだろうか」
なぜ形を整えられ、はみ出さずに整列し、ベルトコンベアに乗せられ、分別されなければいけないのだろうか。
「個性」なんてものはなく、それは個性ではなく「欠陥品」として処理される。
利用価値のないもの。
お金や生活のために「自分」を捨てないといけない。
会社や組織にために、「自分」を偽らないといけない。
微塵も思ってもない「いらっしゃいませ」
微塵も思っていない「ありがとうございます」
目に奥は一切笑っていない、整えられた「笑顔」
「笑顔の練習をしましょう!ウイスキー!キウイー!」
アホなんか。?
出すものなのか、出るものなのか。
「笑顔だから幸せになる」
それは否定しないが、幸せなら自然と笑顔が出る。
自分たちは「マシーン」ではない。
自分を捨て去り、組織に依存し、政治家のような顔をしたおっさんが、「成功」を押し付けてくる。
確かに、彼らには「お金」はあるように見えるが、それだけなのに、自分たちのことを「成功者」だと思っている。
お金を持っているのに、誰とも心は通っておらず、部下などから「とりあえず、はいはい言っておけばいい」なんていう、陰口を叩かれているが、叩いている奴も、そいつと同類で違いない。
この話は自分でも腐るほどしたから、いい加減飽きた。
不思議なもんで。
どんな形でブログを書いても、最後は「自分の道をいけ」という答えに辿り着いてしまう。
それは、自分の「思考のクセ」であり、それに対して議論したり、否定されたりする機会が少ないから、頭でっかちになっているだけだと思うが。
むしろ、それの何が悪いかすらわからない。
自分の人生を自分らしく生きることが、「間違い」である理由はなんだろう。
でも、そんなことを深く考えたくもない。
自分の「心」が、もうハッキリと答えを出している。
ただただ、賢い人間の脳みそと、教育という「洗脳」が、その心の声を素直に聞こうとしないだけ。
自分の「心」を押し入れに閉じ込め、少しでも顔を出そうもんなら激怒する。
「お前は出てくるな!!気持ち悪い!!」
そして、彼・彼女たちは、出てこなくなる。
でも、本当はわかっているはず。
押し入れに入っている自分が「本物」で、怒っている自分が「擬人」であること。
押入れの人物を外に出せば、きっと今あるアレコレを失うことになる。
そして、周囲から後ろ指を刺され、惨めな思いをするかも。
そして、それはその想像通りになり、疑心暗鬼になる。
でも、歩かされているのではかく「歩いている」し、踊らされているのでなく「踊っている」
文字通り「自分の足で」
まだ、心から「本当の自分」を信じてあげられてはいないけども。
でも、「この道を行こう」と、心の中の何かと何かが、笑顔で肩を組んでいることは間違いない。
そして、3人目の「めんどくさい」
が、その2人の間に入り。
「とりあえず、お菓子食べながらブログ書こ?」
と言ってきたのが、30分ほど前だろうか。
3人目がお調子者すぎて、思わずダラけてしまうが、こいつなしでは生きれない。
行くだけ行ってみよう。
その先のことは、その先の自分にお任せする。
賢くないのだから、痛みで覚えるしかない。
バカなのだから、やるしかない。
そう。
バカなのだから。
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