自分らしくありたい

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独学で学んだ程度だが、仏教の世界では「無」が基本らしい。

だから、「自分」なんてものはなく、あるのは周囲との関わりの「縁起」であって、その縁起の中で「自分」というものが存在しているに過ぎない。

という認識でいた。

 

「〇〇したい」「〇〇がほしい」

そんな煩悩を消し去り、上も下もない。右も左も。あっちでもこっちでもない。

「中道」というスタンスでいる。

この宗教観、哲学、思考、呼び方は様々だが、非常に真を捉えていると、自分になりに感じていた。

だからこそ、主に本などを読んで、なんとか、この溢れんばかりのクソみたいな煩悩を消せないものかと、試行錯誤してみたが、そもそも、「煩悩を消したいと思う煩悩」から抜け出すことなく、一時的なのか、仏教信仰は落ち着いた。

 

そして、一方で、どうしても折り合いがつかなかったのが、「自分」という存在だった。

自分は「無い」という割に。

お釈迦さまは生まれてすぐに7歩いて、「天上天下唯我独尊」とい言い放ったという逸話があるが、生まれてすぐに、それを言える歯が生えていたということに驚きだ。

 

そう。「無い」ってんのに。(怒)

「天上天下唯我独尊」

この世に自分は、自分しかいない。

的なことを言いよったのです。

 

そこの矛盾、どうしてくれんだ?と言いたいのだが。

どんな宗教も、その人の捉え方で見方が変わるものだと思うし、どれも「完璧ではない」どころか、都合の良いことも多々あるようだ。

だから、参考につつも、結局その答えを導き出すのは、「自分以外の何者でもない」というのが、今の所の着地点だ。

 

いくら、「自分なんてない」と言い聞かせても。

アホでワガママなおっさんが、今ここナウで、どっしり構えている。

テコでも動かないが、可愛い女性がいたら、たんぽぽの綿毛のように、すぐ飛んでいき、後悔して戻ってくる。

それが、I am ME。

 

苦しいことはしたくない。

笑顔でいたい。

家族と一緒にいたい。

自由な時間を手に入れたい。

楽しくいきたい。

 

誰もが思うことかもしれないが、あまりにも自分を押し殺しすぎて、もはや「自分」を見失っていたのが、去年の退職するまでの自分だろう。

退職後の半年間、自ら申請した失業保険をもらいながら、ただただ「自分」と向き合う日々だった。

楽しかったのは1ヶ月目だけで、急に仕事がなくなった反動だろう。

2ヶ月目には、感じたことのない不安感で、夜になると考えてはいけないことが頭をよぎった。

 

「このままではマズイ」と思い、行きつけの病院で、睡眠薬をもらうついでに精神科でも勧めてもらおうと思ったが、たまたま先生がおらず、話を聞いてくれた看護師さんが、自分の手をとり。

「精神科には行かない方がいい」

「なるべく、生活習慣を整えて対処してみましょう」

と、言ってくれたのだが、どこの誰かも、顔も覚えていたいけど、本当に感謝している。

その「優しさ」が、今も心を支えてくれているのだと思う。

 

大人はずるい。

「自分らしく生きろ」「自分で選択しろ」

と、言うくせに、型にはめたがる。

はみ出せば打たれ、ミスればつつく。

 

大人はずるい。

「自分らしくいていい」「自分をもっと出していい」

と、言うくせに、自分は自分を押し殺し、主張はしない。

迷惑ごとは避け、困っている人がいたり、不都合があっても、見て見ぬ振りをする。

 

「自分らしさ」を語る大人が、一番「自分らしく」生きてない。

組織に生き、右向け右に倣う。

たとえ、それが悪いことだと知っていて、ただただ組織の利益のための事だとしても、「そんな事したくない」と思いながらも、ちゃんと「右向け右」をするじゃねーか。

 

「これって、間違ってませんか?」

 

って、言える大人が、一体何人いるんだよ。

そして、それが言えないんだ。俺も!!

 

「自分らしくありたい」なんて言いながら、自分を押し殺すことになれている。

「正解も間違いもない」なんて言いながら、「不正解」に怯える。

 

ブログや口では、いくらでも言えるのに。

リアルな自分は、その真実に目を背け、逃げてばかりだ。

「誰かやってくれ」「誰か正してくれ」

 

自分のいう「自分らしさ」は、そういうことなのだろうか。

そんな生き方をするために、いろんな物を捨てたのだろうか。

 

いや違う。

ちゃんと出てきてくれ。

そこにいるのは分かっている。

 

「お前」は「お前」でいいはず。

社会の答えはあるかもしれないが、「お前」の答えはない。

「お前」の答えは「お前」しか知らない。

 

「お前」に正解も間違いもない。

正解があるとするならば、「お前」が笑って、心穏やかに過ごせる場所だろう。

不正解があるとするならば、「お前」ではなく、その周囲が涙を流している事だろう。

 

ちゃんと人を愛したいから。

自分らしくいた方がいい。

 

仏教では「無」と言われていたとしても。

そこの「心」があると信じたい。

 

「自分」があると信じたい。

「自分らしく」生きれると信じたい。

「自分らしくありたい」

 

だから。

自分をもっと大事に。

心の中にいる「お前」を、許してあげて、解放してあげるべきだと思う。

 

そうしたらきっと、大嫌いだったあいつも。

殺意が芽生えてた奴も。

クソのようなあの野郎も。

 

少しばかりは許せるのかもしれない。

もっといけば、そいつはそいつ。って感じで、認識した上で、きっと視野にも入らないようになる。

 

まるで雲の上のように。

ふわふわと、気持ちよく生きたい。

 

現実は厳しいとか。

現実を見ろとか。

金がないとか。

 

もう、そんな言葉は聞きたくない。

あれがあろうが、なかろうが。

「自分は自分」

ただ、それだけ。

 

今日も一日が終わる。

「自分を生きただろうか」

「お金」や「仕事」に流されて、「自分」を生きていないのではないか?

 

時にはやりたくないこともやらないといけない。

「自分」を生きるために、嫌なこと、面倒なことがあるのも受け入れないといけない。 

でも、その全てが「自分」のなのだとしたら、きっとそれは「幸せ」だと思う。

 

はぁ。

また無駄に長々と書いちゃったけど。

 

ちゃんと言い放ちたい。

アラフォーのキタねぇおっさんが言うには痛すぎるが、承知で言う。

 

「自分らしくありたい」

 

この生き方をブラさない。

随分と遅いスタートだが、運が良ければ、人生はまだ残されているかもしれないが。

終了のホイッスルが、いつ吹かれるのかは分からないけども。

 

明日も明後日も。

「自分」を生きる。 

 

俺は俺の。

あなたはあなたの。

 

人生を生きる。

生きれる。

 

はず。

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