先日から、パソコンの前に何度か座り、記事を書いた。
しかし、その度に消してしまっている。
途中で飽きてしまった時もあるが、ほとんどの場合「なんか違うな」と感じ消してしまう。
こんなブログに「完成度」なんて求める必要はなく、ましてやルールがあるわけでもないのだが、強いて言えば、自分の脳みそに入っている言葉を「正確に」「嘘なく」吐き出したい。
というのが、ルールというか、欲望とも言える。
もちろん、頭に浮かんだ言葉をストレートに出してしまえば、ただの愚痴や悪口になってしまうため、誰も見てないとしても、ある程度オブラート包みたい。と思えるブログは、アウトプットの性質としては、適した媒体だと思っている。
最近は、自分を卑下する言葉が多く、自分は愚かだとか、亀だとか。
自分は「可哀想」なのだろうか。
いや、そんなはずはない、
愚かなのは確かだが、そのどれもは「自分で選択したもの」で、そのどれもが「誰かに頼った代償」だ。
この現実を受け入れない限り、本当の意味での「成長」は、ないのだと思う。
10月に入り、東北は寒くなってきた。
関東との気温差は10度以上あり、関東では「真夏日」なんて報道されている中、最高気温は20度だった。
現在10月9日だが、夜はフリースを着ている。
そのくらい寒い。
ここから本格的な冬を迎えるにあたり、関東でダラダラ生きていた自分は、「東北の冬」の洗礼を受けることになるのだろう。
考えただけで嫌だ。
シンプルに、嫌だ。
「関東に帰りたい」
妻の前で冗談混じりに言うフレーズだが、心のパーセンテージは50−50。
いや、30ー70で、「帰りたい」なのかもしれない。
とはいえ、戻ったところで何もない。
そりゃ、仕事やら家は、探せば何かしらある。
が、探しているのは「それ」ではない。
らしい。
ここでふと自分に問いかける。
「なぜ、移住をしたのだろう」
理由を探せば色々ある。
退職から始まり、心境の変化、家族や妻、妻の両親の想い、自分の親との確執(あ、思っただけでイラっとするな)
生活水準を下げる、のどかに暮らしたい。などなど。
確かに理由は「一つ」ではない。
複合的に積み重なり、折り重なり、今の結果になっている。
いろんな選択肢がある中で、今この状況下でブログを書いているのだとしたら、そんなに間違った選択ではなかったのかもしれない。
大きく間違っていれば、きっとこうしてブログを書くことも出来なかったのかもしれない。
5人で暮らすには狭いアパート。
タイピングの合間には、隣の部屋で妻がZOOMをしている声と、すぐそこで寝ている子供達の寝息が聞こえる。
洗濯機の音、換気扇が回る音。
改めて問う。
「自分は一体、何がしたいのだろう」
この問いは、退職後の半年間で、腐るほど自分に問いただしたが、答えは出なかった。
やるべきことは「したいこと」ではなく、どうやら「できること」らしい。
実は「したいこと」なんてなくて、本当に「したいこと」は、もうすでにての中にあるのかもしれない。
大事なものは、もうすでに手に入っているのに、「ないない」と探しているだけなのかもしれない。
そりゃ見つからないさ。
もう持っているのだから。
持っているものほど見えない。
持っているものほど感じない。
持っているものには感謝もせず、新しい何か「したいこと」「ほしいもの」を貪るように欲しているだけなのかもしれない。
仏教的な考えは好きだが、煩悩が悪いとも思わない。
自分を成長させたい、お金が欲しい、素敵な異性と結婚したい。
そんな煩悩があるからこそ、人生を楽しむモチベーションにつながっている部分もある。
仏教では全てのものが「無」なので、当然モチベーションなんて言葉も「無」なのだが。
自分たちは修行僧ではない。
しっかり煩悩に満ち溢れた方が、かえって「人間らしい」と言えるのかもしれない。
これだけ吐き出しても、なんか残尿感がある。
残尿?残糞?
どちらかは分からないけども、なんか大事なものが外に出ていない。
なんかこう、奥の方で止まっている。
でも、踏ん張り過ぎも良くないのだろう。
きっと少なくない人が、トイレの中でスーパーサイヤ人になりかけているはずだ。
サイヤ人になれればいいが、血管が切れたり、切れ痔になってしまっては困る。
程よい力量も大事だろう。
最後に少し思うのが、別に呑気に生きるのも悪くない。
いや、これは本心ではない。
なぜかいつも、恐怖心というか、強迫観念だろうか。
努力しないといけない、稼がないといけない。人として正しくあるとは?
なんて思う。
が、やはり人間には休息が必要なのだろう。
今、このブログも「休息」の一つだ。
脳みそのエネルギーを随分消費するが、本業やせどりなど、金稼ぎのことを考えなくて済む。
「もっと気楽に生きたい」
そう思うのも、当然のことなのだと思う。
この後目を閉じると、「今日」が終わるらしい。
変わり映えのない1日。
生きる意味は分からないが、それでも今日を終え、明日を迎える。
今日まで、ページをめくり続け、これからもめくり続ける。
きっとそれに、深い意味はない。
しかし、この物語の終了は、自分で決めることができない。
もう夜も更けた。
疲れているのさ。
深く考えるな。
そう言い聞かせて、また1ページ。
この先の人生に悲観するよりも、今日ここまで生きてくれたことに感謝したい。
「持っているもの、当たり前のことには感謝ができない」
その代表が「自分の命」なのかもしれない。
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