「努力」という言葉を何かで表すとするなら、頭に思うかぶ言葉が2つある。
一つはティッシュ。
もう一つは、ホウキで穴を掘る。
ティッシュは、一枚一枚は薄い。
ましてや1枚ではなく、実際は2枚で非常に薄い。
けど、市販で売られているものは、それらが重なってできている。
「積み重ねる」という言葉を表現するには、この上ないものだと思っている。
ホウキで穴を掘る。
は、なぜか自分の頭によぎった言葉で、なんか同じところをずっとはいていれば、いずれは穴掘れるだろうな。
と、掃除の時間にでも思ったのかもしれない。
目的や目標の達成には、そんな日々の意味があるのかないのか分からないようなことを、積み重ねていくしかないのだと思う。
子供の夏休みも2週間以上が過ぎ、後半戦に差し掛かっている。
毎日、口を開けながら、まるで池の中のコイのような顔でテレビがあるを見ている我が子を横目で見ているのは、やや悲しいものがある。
なので、少年団でサッカーをしている次男と、仲の良い友達二人を集め、自分を含め4人で、「朝練」を敢行し始めた。
二人は1年生からサッカーを始め、現在5年生になるが、リフティングは20回にも満たない。
我が子は、私に洗脳されリフティングを「させられていた」ので、100回を超えてくるが、気分屋で諦めが早く、自ら成長しようとはしない。
そんなみんなで、残りの夏休みの間に「100回」を目標に、毎朝朝練をすることとなった。
そして、1日目が終わり、なんとか全員が「20回」を超え、明日は「30回」を目標にやってみることとなった。
はっきり言って、リフティングをしただけでサッカーは上手くはならない。
それは、無駄に長くサッカーをしている自分も理解している。
しかし、リフティングは「積み重ねる」を学ぶには、非常に優秀なサッカーツールだと思っている。
ひたすらに「1回」を積み重ね、数を重ねていく。
ボールの当てる場所、当てる角度、高さ、風向き。
「なぜできないか」
「どうすれば出来るのか」
それを自問自答し、いうことを聞かない体を微調整しながら修正していく。
繰り返しになるが、リフティングが100回できることには何の価値もない。
上を見れば、いとも簡単に1000回を達成する人もいれば、5回もできない人もいるだろう。
上を見上げて、「1000回できる人がいるから自分は10回でいいや。どうせ勝てないし。」
と、考えることをやめ、諦めることもできれば。
また、「5回しかできない奴がいるから、俺は20回できればいい」と、見下すこともできる。
イチロー選手が引退会見で語った、「あくまでも自分の秤は自分の中にある。比べることはできない」と言うように、他人と比較してしまえば、「やらない理由」は、易々と見つけることができる。
そのように他人と比較し、やらない理由を探し始め、新しいものに飛びついては諦め。また同じように積み重ねられず、無限ループにハマっていく。
そう。まさに自分そのものだ。
継続の重要性、自分と向き合う必要性、少しずつ自分を超えていく。
他人から見たら、鼻くそのような目標かもしれないが、掲げた目標に取り組む「プロセス」が重要だと思うし、その成功体験が、その後のより良い人生の糧になるのではないかと、今はそう信じて、日々何かを積み重ねようとしているところだ。
「お金持ちになりたい」
そう思って最初にやることがテレビゲームなら、きっとお金持ちにはなれない。
「モテたい」
と思って最初にやることが出会い系の登録なら、きっとモテることはできないのかもしれない。
「強くなりたい」
と思って最初にやることが、SNSでアスリートを誹謗中傷することなら、強くなれるわけがない。
自分自身は、上にあげた3つの、どの方法も知らない。
しかし、「するべきこと」は分からなくても「すべきでないこと」は何となく分かる。
だから、それを避けて、正しいか間違っているか分からないような「今できること」を、やっている。
毎回言うように、ブログ自体には何の意味も価値もない。
だけど、この日々の積み重ねが、自分のストレス解消なのか、文章力の向上なのか、何かしらの成長につながっているとは思っている。
あとは、純粋に楽しい。
それだけだ。
だから今日も、何となく何かを重ねる。
ティッシュ一枚にも満たないようなものかもしれない。
もっと言えば、何一つ積み重ねなんてできておらず、思い込みに過ぎない。
そう思いたいだけの、エセ努力なのかもしれない。
だとしても、「なんかやる」
逃げすに「なんか」
理由はいらない。
掲げた目標のために「なにか」
ただただ、「何か」を。
ひたすらに積み重ねる日々にしたい。
積み重ねた結果がどんな結果になろうとも、実は全く何も重ねていなくても。
その真実を受け入れる。
別にそれだけの話。
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