パリオリンピックが終盤に差し掛かる中、ふと思った。
オリンピックは平和の祭典なのに、あちこちから選手に対する誹謗中傷が問題に上がり、かくいう自分も、それに反応して、脳からの指令で指を動かしている。
何より、すっかり報道はされないが、今もなお、どこかでミサイルが飛び交っていたり、銃弾が飛び交っているのだとしたら、そんな世界で「平和の祭典」なんてのが通用するのだろうか。
アスリートたちの挫折や感動をエサに、何かもっと大切ものを隠そうとはしていないだろうか。
テレビは手品に似ている。
こっちを見せておきながら、本命はそっちにはない。
もはや書こうと思っていた内容より、前置きの方が長くなってしまった。
これがブログ。
これこそが自分のブログ。
そんな言い訳を自分に唱え、ブログを進めていく。
「ずっとやりたかったことをやりなさい」
そんな本を読んだ。
もうメルカリで売ってしまったが、それを読んでから「モーニングノート」なるものを、日々書いてる。
けど、「ブログも書きたい」と思ったときに、ブログとモーニングノートの役割が被ってしまう。
ノートには、「ブログとモーニングノートは、なんとなく違う」「使っている脳が違う」
と、言い聞かすように書いた。
が、脳内にある言葉の数々を「放出する」という意味では、やっていることは全く同じだ。
けど、モーニングノートに意味を持たせるために、正当性を保ちたい、ちゃんとやっている自分を肯定したい。
そんな「思い込み」が、モーンングノートから、「モーニングブログ」への移行を妨げている。
「ブログはノートに比べて楽だから」
そんな理由で、ノートに書くことを正当化し続けたが、いよいよ「ブログでいいだろ」と脳が判断した。
ブログとノートを比べたときに、いつも頭に浮かぶのは「トイレ」
ブログが洋式トイレ、ノートが和式トイレに例えると、ニュアンスが伝わるのではないかと思っている。
ブログはゆっくり座って、お尻も暖かいし、ウォッシュレットも付いている。
用を足した後に、すっきりキレイに流れていく。
一方のノートは、「排泄する」という意味では同じだが、洋式トイレに比べると、なんとなくスッキリしない。
長期戦になると膝が痛むし、お尻も拭きづらい。
達成したものは同じなのに、なんとなく「した感」が違う。
トイレに例えると、洋式と和式があったら迷わず洋式に行くのに、ブログとノートを比べると、「ノートの方が努力感が出る」という理由で、ノートの正当性を維持しようとする。
それはつまり、「和式に入って、膝を酷使し、イキんでする方が努力していると思う」と言っているのと同じだ。
そう考えると、「モーニングノート」より「モーニングブログ」の方が、遥かに効率も高く、満足感もある。
だから、今後は「モーニングブログ」をすることにして、たまにノートを使うようにしよう。
そんなくだらない話も、色々視野を広げてみると、何かに固執して「思い込み」で物事を進めていることも少なくない。
男は筋肉隆々でないといけない。
女は笑顔を振りまかないといけない。
これまでしてきた話とはニュアンスはズレてしまうが、そんな「思い込み」が、社会や自分に多々あるものだと感じている。
「こうでないといけない」「こうあるべき」
「自分はそんなことない」
と思うことも、もしかしたら「思い込み」でしかないのかもしれない。
自分が取り入れている、仏教の「空」という言葉も、自分自身は「空」が、極めて真実に近いと思っていても、結局は思い込みに過ぎないのかもしれない。
だとするなら、その宗教も価値観も、全ては「ただの思い込み」に過ぎないのかもしれない。
だとするなら、冒頭に述べたオリンピックも戦争も。
何もかもが「思い込み」で、きっとそれをやることに意味はない。
このチンケなブログの言葉にも、当然なんの意味もない。
世界を悲観しているわけではない。
だからと言って、掲げた目標を取り下げるつもりもないし、ブログを辞めるつもりもない。
「思い込みの世界、という思い込み」
「思い込みという思い込み」
やはり意味はない。
というわけで、「ちゃんとした終わり」なんていう思い込みをなくし、ブログを閉じる。
ただただ、「今」できること、「今」やれること、「今」するべきこと。
その「今」という思い込みを背負って、砂漠のど真ん中のような人生を、テクテクと歩いていくだけだ。
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