「ブログを書きたい」
そんなことを考えながら、何日経過しただろうか。
いつも頭の片隅には「ブログ」の3文字があって、脳内を徘徊するたびに、それが目に入る。
「いつかやろう」
「いつか書こう」
汚い部屋で、いつまでも片付けられない何かのように、ブログはいつでも存在している。
この訳のわからない表現も、つまらない言葉の数々も、書かない限りは表舞台に立つことはない。
つまり、「排泄」されることはない。
だから、便秘のように頭の中にとどまっているのかもしれない。
書きながらそう思う。
誰に見られるわけでもないのに。
全くのど素人が、なぜか完成度を求めている。
「うまく書かないと」
「何かお題がないと」
最初からそんなもの存在しない。
呪術廻戦の夏油傑が、「祓う取り込む」を繰り返すように。
「思い浮かんだら書く」
何かに意味を持たせる必要はない。
ただその生理現象とも思えることを、そのまま流れに任せればいいと。
そう思っているようで、無理に押し付けているだけなのかもしれない。
急に大それた話をするならば。
「生まれては死ぬ」という生物の摂理の中で、何か無理やり意味を持たせたり、結果というなの優越感を持とうとはしていないだろうか。
人生をやり切るとか。人より良い生活をするとか。有名になるとか。
その欲望こそ人間らしい。というほど、人間について何も分かりはしない。
きっと一生わからないし、輪廻として生まれ変わっても、わかることはない。
なぜ生まれ、なぜ死ぬのか。
そもそも、人間が地球にいる意味。
地球がある意味。
精神とはなんなのか。
そんなことを考えたら不眠症になり、不健康になる。
一体自分はなんの話をしているのだろうか。
自分でもわからないが、「何か書こう」と思って書いたけ結果がこれだ。
これが「コラム」という、何か特定の問題に対するものであるなら、こんな訳のわからない文章を表世界に出すなんて、常軌を逸している。
が、これが生理現象の排便のように、体には重要だが、人生に意味を持たせるものではないとするなら、これを書く意味を、少なからず見出すこともできる。
いずれにせよ、ここまで書いた結論としては
「意味はない」
書くことにも。考えることにも。生きることにも?
特別な意味はないのかもしれない。
それでも、いつ終わるか分からない人生に、何かしらの思い出や満足を覚えたい。
それは人間の性なのではないかと思う。
それを押し殺す必要もない。
眠いから寝る。
食べたいから食べる。
遊びたいから遊ぶ。
痩せたいから痩せる。
稼ぎたいから稼ぐ。
その全てに意味はないとしても。
明日もきっと、「特別」な日になるように生きるのだろう。
何かに意味を持たせ生きるのだろう。
終わりの見えない、この記事の終わり方を探す。
はい。ここまで。
以上です。
はぁスッキリ。
その全てがしっくり来ないが、それにも意味はない。
意味なんて。
ない。
の、かもしれない。
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